下記は、私(升永英俊弁護士)が寄稿した「亡き母の遺歌集序文」です。御笑読下さい。
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平成13年7月20日発行 亡き母升永治子遺歌集 『螢かご』に寄せて
二人の叔母及び母の歌仲間の方々のお力で、この母の歌集を作って頂いたことを深く感謝いたします。又長男の私に一文を書く機会を与えていただき、御礼申し上げます。この歌集は、人様の目に触れるものですので、本来ならばその様な配慮をすべきなのですが、誰もいないところで、母一人に話しかけるつもりで、左記の文章を書いてみたいと思います。
母は、私が小学校三年ころから、ネフローゼという当時治療法がなく、誰も助からないと思った重い腎臓病(現在でも、その治療法が出来ているのかどうか、不明である。)を患い、四〜五年入院した。退院後は、それまでの健康な体から病弱な体になってしまった。母は、教育熱心だった。母は、私にそうは言わなかったが、子供の私が、小、中、高と勉強ができることを喜んでいたと思う。小学四年〜中学二年まで、愛媛県壬川町の田舎の公立の学校だった。私は、(クラス全員が勉強しないので)勉強しなくてもいつもクラスで一番だった。 そのせいか、私は、特に母から勉強するように言われた記憶がない。ただ、升永の家風は、勉強することを一番大切なことと考え、お金のことを言うのは汚らわしいと考えていた。父方の祖母(升永雪)が、いつも、孫の私にこのこと強くを言っていたし、母もその点は同じだった。 私の東大受験の狂的な期間は、プロ野球日本シリーズ最終日(多分昭和三〇年一〇月二〇日ころ)〜東大入試第一日の前日(昭和三一年三月一日)であった。今と違って、東京の冬は寒かった。私が午前六時に起きると、いつも父がいて、石油ストーブが勢いよく焚かれていた。父は生来の寒がりで、そのために、ストーブを焚いて部屋を暖かくしているのだろうと思っていた。しかし、多分、父は、私より早く起きて「私が起きて直ぐ勉強に集中できるように」と予め部屋を暖めてくれていたのであろう。私がどのように早く起きていても、いつも、父は、勢いよく燃える石油ストーブの横で、椅子に座って煙草を吸っていた。
母は、一点の疑問も持つことなく、戦前の文部省の女子向け教科書の教える母親像を理想と考えていた。母にとって、子は自己実現の目的であり、手段であった。私が成功することが母自身の人生の目的であった。これは、母の夫(私の父、升永良澄)が必ずしもサラリーマンとして偉くなれなかったこと(富士紡績 (株)の教育担当の課長で、定年前(五一才)に退職)の代償であったろう。
問題は、私の考えている「成功」と母の考えている「成功」とが同じでなかったことだった。あの有名なクラーク先生が去られた直後の札幌農学校(現在の北大農学部)で学んだ小川喜代治(私の母方の祖父)が農林省の役人であったせいであろうが、母は、私が役人か大企業のサラリーマンとなって偉くなり、一生を終わることを望んでいたように思われる。 私が、住友銀行を辞めて、失業することを極端に恐れた。母は、私が弁護士になった後も、お客がなくて流行らないのではないかと、心配した。私は、四一才の時、六年間の米国での活動を切り上げて、帰国し、司法研修所同期の永島孝明弁護士と東京都虎ノ門で升永永島法律事務所を設立した。その時も、母は、私が法律事務所を開設するために銀行から借金をすることを心配した。バブル期になって、私は、不動産を買う機会を失った。母は私の自宅が借家であることを気に病んだ。母は、私に会うたびに「何故、家を買わないの?」、「事務所の家賃はちゃんと払えているの?」、「借金はどれくらいあるの?本当のことを言いなさい。」と聞いてくる。私が「借金を返した。」と言っても信用しない。最後は、いつも、私が「うるさい。」と大声を出すと、母が「親に向かって、何てこという。」と怒って、寅さんの映画の如く、しっちゃかめっちゃかになって、終わる。
中島洋子叔母より、数日前聞いたところでは、私が平成六年度分として、所得税、地方税の合計で八二〇〇万円強の税金を支払い、私が日本の全弁護士の中で(恐らく)三番の高額納税者であることを示す書籍「長者番付」(国土開発社刊)を母に見せてからは、母は安心したという。又、私は父と母に生活費として毎月六五万円振り込んでいたが(この金は一切手をつけられず、死後そのまま残されていた。)、このことも、息子の私は生活に困ってないことの証となり、母は、私のことを少し信用する様になったとのことである。私は、母は私のことを心配したまま死んだと思っていたが、洋子叔母のこの言葉を聞いて、母は、死ぬ数年前頃からは、「私のことを少しは信用してくれていたのか。」と、ほっとした。
平成一二年度の私の所得税は、141,916,930円であった(之に、更に、住民税50,409,500円、事業税19,308,400円、消費税23,959,400円が加算されるので、平成一二年度の私の納税額は、235,394,230円となる)。私は、日本の全弁護士中一番の高額納税者となったようだ。このことを母に伝えたいが、仮に伝えることができたとしても、母は喜んではくれても、こんな税金をどうやって息子は払えるのか、来年も、その次ぎもあるだろうに、と心配するであろう。
二年前病院で母が死んだ。東村山の生家に帰って、母の持ち物を整理していると、「大切」という文字を手書きした付箋を貼り付けた筒が出てきた。開けると、私が昭和四四年度の司法試験の合格者五〇一人中二位で合格したということを示す書面が出てきた。母は、リスクのあることばかりする息子ながら、私が司法試験を二番で合格したことを大切にしていたのであろう。
母は、「人に迷惑を掛けないこと。人と和して、人と争わないこと。」を、人間として最も大切なことと考えていた人であった。私は、誤解を恐れずに言えば、「現在の社会の仕組み又は現在の判例が妥当かどうかを改めて問い直し、おかしいと思えば、日本の中でたった一人であってもその変革のために闘わねばならない。」と考えている。そのためには、リスクがあろうと、それを取らねばならぬと思う。つまり、私は、何でも、かんでも、『和をもって尊し』とするという考えに組みしない。ただ、日本の体制を支配していた官僚(これも司馬遼太郎により教えられたのだが、エリート軍人は、幼年学校、陸士、海兵の入試という一高らのトップグループの旧制高校入試と並ぶ日本最難関の国家試験で選ばれた、官僚中の官僚であった。司馬遼太郎が残した最も偉大なことの一つは、この言われてみれば、あまりにも当たり前のこの事実、『軍人が官僚であること』、『官僚が国を支配すると、国を滅ぼすこと』を明らかにしたことである。)らのやらかした第二次世界大戦の愚挙・悲劇(日本人以外の人々も含めると、一四〇〇万人を超える人々が殺され、死んだという)に直接巻き込まれた母が、絶対悪の地獄をみてしまった自らの経験からこの信念に到達したのも、私は、(大いに異論ありといえども、)理解できないわけではない。とはいえ、ここが、私と母との、話の合わない根源である。
母が私を、子の私がイヤになる程愛してくれたことは、疑いない。もし母が生き返ってくれても、私と母との関係はそれまでと同じことを繰り返すであろう。母も私も、自らの信念の確信犯だからである。
私は、平成八年頃から一八才の時の東大受験直前四ヶ月間のあの集中力(司法試験の直前四ヶ月間は、残念ながら、どうあがいても、せいぜい東大受験の時の八〇%の集中力しか出せなかった。)をもって、毎日の一時間、一時間を使いたいと思っている。自分の頭脳を鍛え、その限界まで使いたいと思っている。現実は厳しく、私は、今、東大受験の時の六〇%位しか、時間を大切にしていない。私は今五八才だが、八五才までは、一八才の時の自分を目標にして、その時の自分に劣等感を感じながら、走ろうと思う。母は(そして、父も)、勉強を最も大切なものと考えていたから、その遺伝子を、私は承継したのであろう。
東大受験の直前は、散髪に出かける時間がもったいなくて、已むを得ず長く伸びてきた前髪を輪ゴムで縛った。それ程、散髪のための三〇分が貴重であった。司法試験の直前は、新聞を読むための四〇分がもったいなくて、その四〇分を勉強に回した。今、そこまではやれない。しかし、それでも、一日二四時間から寝るための六時間二〇分、その他三時間(風呂、トイレ、新聞、食事、居眠り、運動等)の合計九時間二〇分を除いた一四時間四〇分を仕事(その中心は、裁判〈望むらくは、私の視点からみて、正しくない旧い判例を覆して新しい判例となり得るような裁判〉で勝利すること。)に用いようとしている。受験勉強と今とで違うことは、受験勉強は創造性とは無縁の苦役であったのに、今は、創造性こそが勝負を分ける世界(訴訟)の中で毎日遊んでいることである。この苦役の受験勉強をくぐると、一気に世界が開かれ、このような毎日がわくわくする遊びの世界、創造の世界が待っていることを、母の二人だけの孫である私の子(百合子/一七才、俊裕/一四才)に伝えたい。
一〇〇年に一人の天才、司馬遼太郎の歴史家・思想家としての業績を心底尊敬し、そのために尽くされた超人的努力を全身全霊をもって見習わねばならぬと思う。作家池宮彰一郎の「司馬遼太郎は日本史上、織田信長に比肩する稀有の天才。」との一文(文藝春秋平成一二年一二月号)をみて、私はまだ司馬遼太郎の真価を知らないのかもしれないと思った。
私は、母が歌集にできる程の歌を詠んでいたということを、今まで知らなかった。母は、子の私に、自分が歌を詠んでいること、人に誉められるような歌もあることを言わないで、死んだ。母は、「自慢することは卑しい。」、「威張ってはいけない。」とことある毎に、私を教えた。しかし私は、自慢好きの威張り屋で、五八才まできてしまった。父の血を引いたのであろう
今、時間に追われて母の歌集を読むことができない。いつか読むつもりである。多分その時は、私の知らなかった母を知ることになるだろう。その時は、体が崩れるほど泣いてしまう予感がする。 |